同調圧力に負けない挑戦者オルズグルのプロフィール

 

 

タシケント国立東洋学大学の日本語学科に14歳で入学。1985年 ウズベキスタン共和国の首都タシケント生まれ、37歳。13歳で「ひらがな」にひとめぼれしたことをきっかけに日本語を習得。14歳でタシケント国立東洋学大学へ進学。2006年同大学院を卒業。

学生時代から母子家庭の家計を支えるために日本語通訳、観光ガイドとして勤務。来日後は大手物流企業勤務を経て、ワイン輸入会社を起業。現在、飲食店経営。タレントとしても多くのテレビ・ラジオ番組に出演。趣味は、旅、ワイン、和食づくり、温泉めぐり。

#ソ連崩壊 #貧困経験 #母子家庭育ち #就職活動53社落ち #外国人差別 #物件貸してもらえない #運送会社で現場経験

ウズベキスタン・タシケント出身

中央アジアにある国、ウズベキスタンの首都タシケントで生まれました。13歳のときに日本語の「ひらがな」に一目ぼれして、14歳でタシケント国立東洋学大学に入学し、日本について勉強しました。母子家庭に生まれ育ち、学費を稼ぐため、母を支えるため16歳から学生でありながらも仕事を始めました。

日本語弁論大会にチャレンジ

日本語弁論大会にチャレンジした時の写真です。トップの学生の賞は日本への短期留学だったのですが、残念ながら惜しくも上位ではあったのですが敗退。この時はもう悔しくて悔しくて・・。この後日本に来ると知っていれば泣かなかったのでしょうけれど・・

母子家庭育ち

母と14歳の年が離れた妹とのスリーショット。私は学生でしたが、昼に学校で勉強をしながら、夜勤で、ホテルのカウンターで受付業務をしたり、同時に日本語の翻訳・通訳をしていました。その後始めたガイドの仕事も順調にいくようになり、家計を支えました。

日本語ガイドの仕事

「日本が大好きすぎてだまっていられない!」と言っていますが、日本の方との最初のリアルな接点は日本語のガイドでした。日本の旅行客の方をウズベキスタンでお迎えして、有名観光地をご案内する仕事。ウズベキスタンという国ではガイドの資格レベルが細かく分かれていて、私はウズベキスタン全土を案内できる最高峰のガイドで(当時は数人しかいませんでした)、本当に日本の方には優しくして頂けて時にはトラブルもあったりしましたが、最高の仕事でした。

主婦生活

左の写真は私がつくったご飯シリーズ。ウズベキスタンの郷土料理を作っているの?と良く聞かれるのですが、ウズベク料理も洋食も作れます。 ただ私の夫の母(姑)は調理師の資格を持っていて日本料理の作り方を叩き込まれましたので和食がメインです。いつも栄養バランスを考えて料理を作っています。それ以外にも海外生活の時には手に入らない納豆を自宅で作ったことも。

日本での就職は53社落ち

21歳で日本に来て最初に苦労したことは就職活動です。来日後まずは仕事を探しますが、経歴上は「新卒」と同等であるにもかかわらず、「日本の大学をでていないから」などの理由で幾度も門前払いを受けました。54社目で入社し、その後日本でワインの輸入会社を起業します。

日本で家、物件が借りられない!?

夫の転勤の都合でロシアに3年間滞在し、2018年に日本に帰国しました。日本にてワインバーを開こうと決意しましたが、「外国人だから」「女性だから」と店を開くための物件を貸してもらえませんでした。物件だけでなく住む家さえも、夫よりも先に日本に帰国していたために「日本人ではないから」と借りることができませんでした。最終的には知り合いの紹介でなんとか物件を借りることができ、ワインバーを開いて3年目です。

そして政治家へ

ずっと気になっていたことがありました。日本ではどうしてこうもチャレンジがしにくいのだろうと、そして、チャレンジしようとする大変な人を支える制度が整っていないのだろうと。女性・外国人・今有利ではない立場にあるすべての人々が等しく多様に輝く世界をつくりたいと思って、日本のことが大好きだからだまっていられない。そして違うからこそ、同調圧力に負けずに世田谷から日本を変えていきたいと思っています

新たなチャレンジを応援する。

個人事業主、起業家、スタートアップ、フリーランス、芸術家、飲食店経営者、コミュニティ運営者、若者ー 世田谷で新たな挑戦を始める方々の背中を力強く推せる自治体を作ります。

それこそが、世田谷区の地域経済の発展や活性化にダイレクトにつながります。地域の横と横とつながりや交流の場も太く大きくなり、地域の絆が強くなっていきます。

新しいチャレンジの妨げとなる「壁」をできるだけ取り払い、「挑戦」する人の背中をしっかりと押してあげられる政治を目指します。

さらに多様性を認め合う

来日後、就職活動でも、フリーランスの立場でも、主婦の時も、起業した時も、子ども・高齢者・女性・LGBTQ・外国人など、世代や性別や出身などにとらわれない色とりどりの「多様性」を互いに認め合える世田谷区をつくっていきます。

女性の声をもっと届ける

小さな頃から、シングルマザーだった母が、外では懸命に働き、家では家事をしながら私たち姉妹を育ててくれた姿に接していました。

社会で仕事に汗をかき活躍する女性も、家庭を支えて奮闘する主婦の女性も、今の社会の仕組みでは、どこか取り残されてしまっています。女性のキャリア支援、主婦や子育て後の職場復帰支援に、全力で取り組みます。

今よりもさらに女性がいきいきと活躍できる社会には素晴らしい未来が待っていると信じています。政治や行政に届きづらかった女性の声を届けます。

マイノリティに寄りそう世田谷へ

私は母子家庭育ちで、ソ連崩壊に伴う混乱の中、幼少期には、皆さんが想像もできないような生活の苦しさに直面してきました。

だからこそ、ひとり親家庭や貧困に直面している方々、マイノリティや寂しい思いをしている人に寄りそう気持ちがとても強く、理不尽な同調圧力にも負けず、具体的な課題を解決していくことに使命感を持って取り組んでいく覚悟があります。